みきちゃん、また春が来ましたね。振り向くといつものあなたが銀色の自転車で、坂道を上って来てくれそうな気がします。
 この季節の柔らかな空気に包まれて、私だけが感じる痛みがあります。でもそれは、あなたにとってどうでもいいことです。だって最初から二人の人生は無関係だもの。自分のために泣いてくれた子がいたことも覚えていないわね。だけどこの消えない痛みの何千分かの一に相当するほんの僅かな分は、気付かないうちに少しずつ、しかも長い長い間に渡って、あなたの築いた幸せから差し引かれているので大変申し訳なく思います。
 もちろんあなたのことが大好きだった私が仕組んだのではなくて、うんと若かった頃、誓って多くを望まなかった私から軽率にも最愛の人を取り上げてしまった神様が、思いも寄らないところで調達してはその埋め合わせをしているからです。あなたにはなんて迷惑なのでしょうね! でも一方ではそうやって、与えられた使命をきちんと果たそうとしている私のご機嫌をとっているつもりなのですよ。だからちょっとぐらい思うようにいかないことがあったとしても、それはあなたのせいではないのですから、がっかりせずにどうか我慢してあげて下さいね。
 愛する人を失った悲しみと後悔は、それについて様々な書き置きがあるから、今がどうであれ、いつか此処を訪れたらあなたにも少しは分かるでしょうけれど、愛してくれる人を忘れてしまった罪なき罪は意外と知られていないのです。大事なものの喪失は嘆いても、自分に必要ないものまでいちいち気に留めたりしないでしょう? もちろんあなたを責めてなどおりません。そんな資格はないのだし、物語の設定を変えれば私も誰しもその一人ですもの。ましてあなたのように無条件に愛された人なら当然だわ。
 だけどこんなわけで、あなたに限らず人はどんなに幸福でも、不意に何かしら欠けたような物足りなさを感じるのですよ。この先も、私が大好きだったあなたの愛おしい文句が聞き入れられることはないでしょう。放っておけばよかったのに、おかげであなたも損をしましたね。ですがもう昔のことです。今更どうしようもありません。わざわざ悪い奴のフリなどしなくても、まさか他人との間にこんな不条理な等式が成立することを、賢いあなたはこのままずっと知らずにおられるか、さもなくば愚かな私をどうぞお許し下さい。
 こんなくだらない話をしたって想い出のあなたは余裕で笑ってくれる。いつも私の負けね。だから大好きなのよ。

 ところでそんなことより最近はいかがお過ごしですか? 人々が日常を取り戻し、大事なお仕事が再び軌道に乗り始めたら、春には固い蕾が綻ぶようにあなたの心も肩も少しは軽くなるのでしょうに。
 このように不安定なご時世にこそ、ある時独りぼっちになったあなたを思い出します。何十年も昔の夜のことですが、受話器を置く寸前、縋るように「寂しいから毎日でも電話をくれよ」と言った友はまだ高校二年生になったばかりでした。どうしたらよいのか分からず咄嗟に合わせた手の中で、震える小鳥が庇護を求めているようでした。ですが間もなく道は拓けました。あなたが信頼を寄せ志を同じくするお仲間や、心から愛する人たちに囲まれて、もう、寂しくありませんね。流れる年月に確かな思い出を積み重ねて来られたあなたには、記憶の深層からあの頃のご自分と私という友人を探し当てることさえ出来ないでしょう。
 足りない私はあなたのお役に立てず申し訳ありませんでした。思えばその時から今に至るまで、あの悲しい声を繰り返し再生してはずっと、私にだけ見える残影に寄り添っていたような気がします。友としてそばにいた時は見向きもしなかったあなたが一瞬でも自分を頼りにしてくれた。何も出来なかったけれど、その事実が生涯の宝物だったのです。ですがもう既に、いいえ最初から空っぽだったこの手を開き、哀れな心を解放してやってもよろしいでしょうか。世の中が困難に直面している最中とは言え、素敵なものを次々と手に入れ自信に満ちた大人のあなたを、今でも、時々不憫に思ってしまうのは昔ながらの私の悪い癖です。可笑しいでしょう? 中身を少し覗いただけで要らないと突き返された、ただのちっぽけな箱の分際で。
 あなたの素晴らしい人生はまだまだ続きます。止まってはいけません。あなたにはいつまでも夢を追いかける男性でいてほしい。少女の頃から変わらない、私の一途な願いであります。紅顔の美少年の如き勢いで、これからも邁進して下さいね。私は何処にいても、どんな時でも、変わらずあなたを案じ、姿も見えない最後列から応援しています。

 さて、こうしてあなたが想い出の人となり、数え切れない季節が巡って来ては去りました。その度に覗いて見ても、いつもこちらの郵便受けは空ですが、届けられないままの手紙はいくら風に飛ばしてもすぐに溢れてしまいます。あなたへは常に素直であるよう心掛け何通も認めて参りましたが、そうやって言の葉に変えた大切な想い出の中でもひと際色鮮やかに輝く一枚を、私自身のために送らせて下さいね。
 数十年の時を経て今となってはそれが、そこに登場するやさしい人物が、ご自分のことだともうお分かりにならなくても、いつかあなたが手に取って下さったなら、私たちの微かな縁がひっそりと息衝いていた奇跡に感謝して、あの時の神様のミスを許してあげられるかも知れない。また春を迎え、幾度も夢見たあなたの笑顔を遠くてやさしいお日様に翳せば、珍しくそんな気もして来るのです。
 本日見上げれば天高く、こちら京都は空気も澄んでいて絶好の飛行日和です。化身となった言の葉は沈丁花の香り芳しき丘から春風に乗り、ただ目指すは東の方角へ、ロウソクタワーも軽々と飛び越えます。そうして心地よくあの日の空を彷徨って、遙かなる懐かしいあなたの足元へどうぞ舞い降りることが叶いますように。
 
               よう


 進学してたくさんのお友達に恵まれました。今でも連絡を取り合える方々です。ある日、ディズニーランドへ遊びに行く計画が持ち上がりました。私は即座に参加することにしました。ディズニーランドなんてどうでもよかったのです。あなたに会いたかった。ただそれだけが目的でした。   
 新幹線を降りて、みんなは早速遊びに出かけたけれど、私はひとり、あなたに会いに行きました。
 あの時のあなたはやさしかった。黙って肘を差し出して腕を組ませてくれました。遠くから来た私にご褒美をくれたのですね。この人は今でも私が好きでいることを知っているんだ、そう思うと却ってその厚意を遠慮したくなったものです。もっともそうやって男性と歩いたのは初めてですからぎこちなくて、全く以て可笑しなたとえですが、アリスが大きなコーヒーカップの取っ手に掴まっているような、そんな感じでした。だけど心では、やっぱりこの人は私のための人なんかじゃないな、と思っていました。遠く離れてしまったからだけでなく、大人になればなるほど愛と思い遣りの違いがはっきりわかって、久しぶりに会った二人の間に、目には見えない本当の距離を感じるようになりました。
 あなたと知り合う十年ほど前でしょうか、幼稚園からいちご摘みに行ったことがありました。嬉しくて嬉しくて、大きいのも小さいのも赤いのも、それからシスターが「それはまだ赤ちゃんですからダメですよ」っておっしゃったのに白いのまで、手提げのついた可愛らしい小箱にいっぱい詰めて帰りました。お友達はその晩お家の方と頂いたのに、私はそれから幾晩も枕元に置いて大事に残しておきました。永久に保存しておくつもりだったのでしょうね。何日目かの朝、いつものように箱をひらいて覗いたら、緑と白の綿のようなカビに覆われていて、箱ごとそのまま母に捨てられてしまいました。
 あなたはいちごのような人。お食事まで考えておいてくれたのに、ほとんど食べられなくてごめんなさいね。もったいなくて、胸がいっぱいで、本当に食べられなかったの。  
    

    2021 1/22  箱のいちご







   
 



戻 る






Back to Top