人生を振り返って

川の流れは同じでも同じ水は流れない‥
「Rever of No Return」という曲の歌詞です。

「言えてるよな‥」と感じるようになりました。

齢も60を数え、他人がどう言おうが本人がどう繕おうが老年期の扉を開けたのは間違いのない事実です。
生命保険の掛け金が上がり、携帯電話の加入料がシニア割引になり、病ではない老化現象を体現して認識できた事なのです。

私はこの10年「身の丈サイズ」という言葉を座右の銘にして来ました。
無理をして虚勢を張ったり、身の程知らずな事をしても水泡と化すだけである。地に足を着け、根を張って生きて行くのが良い。
先人や賢者から何度も聞いた言葉です。自分も後輩や未知なる愚者には常套句として使ったものです。
「そんなもんなんだろうなぁ‥多分」とは思っていても実感するには50年余りを費やしました。
身の丈を超えるものには憧れもあり、若き血潮のなせる高揚感がある。麻薬の持つ恍惚と通ずるものがあるのかも知れないし、博打における射倖心の煽られ方にも似ていた。
身の丈に合わなくとも、身の丈を変えてまで似合ってみせた事も幾度かありました。
それがたとえ人生における瞬(まばた)きの様なひと時であったとしても、自己解決における自己満足には十分過ぎるものでした。
酔う、溺れるというのはこの事のように思います。
酒を求めてまた盃を重ねるのか、酔いを求めるのかはその人次第ですし、その結末も個人の受け取り方次第なんでしょう。
本当に受け取り方次第に任せて良いのだろうか?
そんな疑問が私には微かにありました‥葛藤までは行かなくとも迷いはありましたね。
それでも「まぁいいか」と思えたのは「次がある!」と信じることができたからではなかったか?
それこそが「若さ」ではないのか?
今を謳歌することが若さであるならば、永遠の命も夢ではなくなる。
なぜなら、今とは過去と未来の真ん中に位置するものだから。
永遠の無限の命があるならば幾つになっても今である。
今はいつまでも今。
今を謳歌し続ける事が可能になるから若さも永遠である。
嗚呼なんと喜ばしいことか!

否。残念ながら人生、命は有限である。地球の歴史から見れば人間の世も有限と言わざるを得ない。
若さも限りがあるのだ。
そんな時が来たのだ。

川にも始まりがあり終わりがあります。
岩清水の湧き出しを始まりとするならば、海への流出が終わりになるでしょう。
岩清水の滴(しずく)を集めたせせらぎは、渓谷を刻む急流となり、雨や他の河と出会い弛(たゆ)まぬ流れとなって平野を下り海へと注ぐ。
さしずめ私は街中の鉄橋の下あたりを流れているのでしょう。
密かに潮の匂いを嗅ぎ、遠く鷗の嬌声を聞いているかも知れません。

「川の流れのように」という美空ひばりの歌がありました。
メロディーが浮かびます。
自分はあのメロディーのように嫋(たお)やかに流れる川になれたのだろうか‥
もう一度やり直せたとしても同じ水が流れる訳ではないし、流れ直すつもりもない。
まあいい。
どんな川になれたのかは海に出てから考えれば。

私という川が恵まれたとすれば、美しいものを美しいと思える「感性」を持ち合わせた事でしょう。
澄んだ岩清水は喉を潤し、水墨画のような渓谷に目を見張り、燃ゆる紅葉を仰ぎ、芽生えた新緑の風を頬に受け、堤の向こうに聳(そび)える摩天楼を眺められる川下りと思いを巡らせられるのも感性のなせる術であろうか。

感性を産み育てたのは「礼節」ではなかったかと思います。
ヒト(homosapience)が人であり、他の動物と区別できるのは理性を持つかどうかです。
理性には色々ありますが、最も重要なものの一つに「礼節」があると考えます。
礼には礼で応え、節度を知り見極め接する事で培われる感性は、考えて真似、教授され、切磋琢磨しながら身に付くものです。

還暦という、花なら満開の若き時代を終えるにあたり、今に続くであろう十年を思い馳せるにあたり、見返り見た「感性」。
これを大切にして生きたいものです。
その方法は未だに見つかっていませんが見つけるつもりです。
礼節を学べる場所も少なからず存在する筈です。
探し物が見つかり、学べたらF・シナトラの「My Way」が流れてくるかも知れません。

川の終焉は人の死を意味することになりますが、私は恐れてはいません。
人は死を恐れるのではなく、死に至る時にあるかも知れない苦痛を恐れているのだと思っています。死者に経験談を聞けない以上、最期の試練だと言い聞かせるしかありません。
一度は経験しなくてはならない事ですから。
その日が来た時
「我が人生に悔いなし」と思えたらそれでいい。
ハンドルネーム:コーネル  更新日付:2024-10-16 02:58:40

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